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大坂漫遊 その32

各位
家康は各藩主に参勤交代制度を強要したが、すぐには実行されなかった。というのも、そのころの藩の数は(支藩、分藩を含めて)300近くあり、これを規則正しく江戸に来させることは大変だったのである。東北、北陸各藩は冬には出られないし、九州各藩は夏の時期には遠い江戸に行くのは無理だったのである。それに、それぞれの藩の事情もあり、これを順序正しく整理するのに家光の代まで待たなければならなかったのである。それに、各藩主が家来を引き連れたため江戸の人口が130万まで膨れ上がり、彼らに物品供給するのも大変だったのである。すぐに大阪商人が手を挙げたが、もちろん彼らも黒潮を乗り切ることはできなかったのである。このため、幕府は、江戸に入府した時、大小の河川が江戸湾に入り込み、氾濫を起こしたのを改修、改善した時のことを思い出し、利根川、多摩川の2大河川が常時通行できるように改修、改善を行ったのである。これに必要な金はこの河川を使う藩、船に支払わさせたのである。もちろん、大阪商人はこのルートも使えなかった。
 さて、家康が次に各に強要させたのが他国との交易の禁止、即ち、鎖国である。すべての国に対して行ったかというとそうではなく、中国、朝鮮、オランダと長崎に限り、厳重な監視のもとに交易は行われたのである。なぜこの3国に絞ったのかは、もちろん理由はある。まず、中国、朝鮮は日本の文化、文明はこの2国を通して取り入れたからだ。しかし、日本の良いところは、これらをそのまま取り入れたのではなく、日本の使い勝手が良いように変えてから取り入れたのである。当然これらのものを保持、維持し、さらに優れたものがあれば、これらのものをも取り入れようとの魂胆があったのである。しかし、これは表の趣旨であり、本音は違ったのである。それは何か。実は、日本は鎌倉幕府時代中國(元)朝鮮(高麗)連合国により、危うく侵略されかかったのである。言う所の元寇の役である。     これも書き出すと長くなるので、今回はこの辺にしておこう。

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画像は我が家の近くにある木の実がなっている木である。例によって名前はわからない。聞こうと思っていたが、そんな時はこの家の人たちと会わないのである。    阿部 弘






































































































































































































































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by hiabe | 2018-10-27 10:27 | 日本