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大坂漫遊 その29

各位
関東、東北の見張り役として、家康は江戸に入府したが、そのころの江戸は多くの河川の氾濫で、あまり人は住めなかった。そのため河川の改良、改修、整地に励まなければならなかった。これが、信長、秀吉の狙いだったのである。しかし、のちになり、家康が天下を取ると、各藩の勢力を伸ばさないため、この戦法を取り、徳川260年の政権維持につながるので無駄ではなかった。
  さて、信長はほぼ全土を掌握したが、残ったのが、毛利藩の備中高松城であった。これを秀吉が攻めたが、籠城し、なかなか落とせなかった。このため秀吉は水攻めを行うことになった。これには1か月以上かかるので、応援に明智光秀を派遣しようとした。その時、信長は100人ほどの家来を引き連れて京都に赴いたが、これを光秀が襲い殺してしまった。これはすぐに高松城の秀吉に知らされたが、秀吉はこのことをかん口令を引き、外部に漏れないようにして、城主と和睦を結び、城は明け渡された。武士は戦って死ぬのは嫌ではないが、水攻めで首の周りを真綿で締められるようにしては死にたくなかったのだ。この後の秀吉の戦略は秀逸、すぐに大坂に軍を引いていった。有名な大坂大返しである。光秀はすぐには来られないとおもっていたが、襲われ、殺されてしまうのである。秀吉はその余勢をかって、配下筆頭の柴田勝家も殺すのである。しかし、光秀はなぜ信長を殺したのかと思うでしょう。いろいろな説があるが、彼は清和源氏出身で名門の出である。しかし、このころになると、源平出身など大した意味がなかったのである。力こそすべて、その筆頭が信長だったのである。そのため、祖先から引き継いだ地位だけを後生大事に守っていた貴族など全く省みることはなかった。ただし天皇はまだ利用価値があると思いそこそこの付き合いはしていたが、自分が天下を取ったら今の天皇制を廃止し、自分がその地位につこうとしていたのだ。こんな彼だから、自分に反する、延暦寺、高野山の僧侶なども多数殺したのである。光秀はこれが耐えられなかったとされている。現在、日本の歴史があらゆる面から見直されているので、この事件も誰かが書くと思われる。今回は大阪商人の出番はないが、家康が主権を握ると今度こそ大阪商人が日本全体の経済力を握る出番なのである。今少しお待ちください。
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今回の画像は我が家にある大賀蓮、このハスは2000年以上前の実から再生された優れものである。大学のダチが送ってくれ、我が家の庭に3鉢あり、今年も見事な花を咲かせている。























































































































by hiabe | 2018-07-31 09:25 | 日本