大坂漫遊 その29

各位
関東、東北の見張り役として、家康は江戸に入府したが、そのころの江戸は多くの河川の氾濫で、あまり人は住めなかった。そのため河川の改良、改修、整地に励まなければならなかった。これが、信長、秀吉の狙いだったのである。しかし、のちになり、家康が天下を取ると、各藩の勢力を伸ばさないため、この戦法を取り、徳川260年の政権維持につながるので無駄ではなかった。
  さて、信長はほぼ全土を掌握したが、残ったのが、毛利藩の備中高松城であった。これを秀吉が攻めたが、籠城し、なかなか落とせなかった。このため秀吉は水攻めを行うことになった。これには1か月以上かかるので、応援に明智光秀を派遣しようとした。その時、信長は100人ほどの家来を引き連れて京都に赴いたが、これを光秀が襲い殺してしまった。これはすぐに高松城の秀吉に知らされたが、秀吉はこのことをかん口令を引き、外部に漏れないようにして、城主と和睦を結び、城は明け渡された。武士は戦って死ぬのは嫌ではないが、水攻めで首の周りを真綿で締められるようにしては死にたくなかったのだ。この後の秀吉の戦略は秀逸、すぐに大坂に軍を引いていった。有名な大坂大返しである。光秀はすぐには来られないとおもっていたが、襲われ、殺されてしまうのである。秀吉はその余勢をかって、配下筆頭の柴田勝家も殺すのである。しかし、光秀はなぜ信長を殺したのかと思うでしょう。いろいろな説があるが、彼は清和源氏出身で名門の出である。しかし、このころになると、源平出身など大した意味がなかったのである。力こそすべて、その筆頭が信長だったのである。そのため、祖先から引き継いだ地位だけを後生大事に守っていた貴族など全く省みることはなかった。ただし天皇はまだ利用価値があると思いそこそこの付き合いはしていたが、自分が天下を取ったら今の天皇制を廃止し、自分がその地位につこうとしていたのだ。こんな彼だから、自分に反する、延暦寺、高野山の僧侶なども多数殺したのである。光秀はこれが耐えられなかったとされている。現在、日本の歴史があらゆる面から見直されているので、この事件も誰かが書くと思われる。今回は大阪商人の出番はないが、家康が主権を握ると今度こそ大阪商人が日本全体の経済力を握る出番なのである。今少しお待ちください。
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今回の画像は我が家にある大賀蓮、このハスは2000年以上前の実から再生された優れものである。大学のダチが送ってくれ、我が家の庭に3鉢あり、今年も見事な花を咲かせている。























































































































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# by hiabe | 2018-07-31 09:25 | 日本 | Comments(0)

大坂漫遊 その28

各位
先に大阪の日本における経済、物流の主導権は1000年にわたると書き、しかし、現在ではその遺跡、遺構はなにも残っていない旨書いた。大学のダチの一人から”そんなことはない。町民文化がちゃんと残っているではないか”と往信があった。”合点、合点”。皆様もこのコラムを読んで何かありましたら往信してください。
   さて、大阪が京都、奈良、大阪に物を売ることができたのは、もちろんこの地区に人口が多かったからだ。しかし、それだけではない、物流に関しても、地理的利点があったのだ。すなわち、大阪湾は瀬戸内に面しており、小さな船でも四国、九州まで運行でき、しかも、湾の前には淡路島が蓋のように位置して、湾内の停泊にも便利だったのである。これは、のちに、江戸に荷物を持ち込もうとし、黒潮に阻まれ、江戸250万の人々と商売できなかったことからも明らかである。当初は商売とし、何でも売っていたのだが、信長、秀吉が出てきて、この地区も安定し、販売品が増えてくると、それぞれ得意の分野に特化してくる。それが米、水産物、野菜市場になるのである。この3代市場をさらに特化するために彼等は講を開くのである。とは宗教用語で、難しい仏典を僧侶がやさしく一般人に開設することからきている。講義、講習などがここからきている。これが広がり、特殊団体の集まりも講を開くと言われるようになった。ここからが大阪商人の真骨頂、この講から株券を発行、この株を持たないものはこの市場に参入ができなくしたのである。さらに産地の人とも契約し、この株を持つものだけしか取引しないようにしたのである。産地の人も、いちいち取引相手を探すよりも楽なので契約し、これで大阪商人は販売、物流の独占権を獲得するのである。これで日本の経済の主導者になったわけではない。あくまでも、大阪から西でのことである。さて、ここで、勢力を増してゆく信長、秀吉、家康の登場である。信長、秀吉は戦国時代のように乱れた国状を安定化しようとした。このとき彼らを助けたのが家康である。家康は何度も危険な目にあい、その都度助かり、しだいに力を増していく。しかし、これに危惧を抱いたのもこの二人なのだ。今までの武士政権はかならず、より勢力のあるものに倒されてきたのだ。このため彼らは家康を関東、東北の目付として江戸に入植させ、都から離れたところに置いたのである。そのころの江戸は湾内に多くの川が流れ込み、アチコチで氾濫、人はあまり住めなかったのである。このため家康は河川を改修、改善し、海を埋め立てて、整地することになるのである。築地という土地の名前で分かるだろう。しかし、海を埋め立てたため、井戸を掘っても出るのは塩水、このため江戸市民は飲水を買わなければならなかった。そこで彼は、江戸郊外の井の頭から湧水を引きこれを飲料水としたのである。これが神田上水である。さて今回も長くなりました。この後、家康は江戸に幕府を開き、150万の人口を持つことになる。大阪、京都、奈良に匹敵するような人口である。サー、大阪商人はどうするか。次回にいたしましょう。
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画像は近所に咲いている花である。先に行っておくけど、名前はわからないけど、きれいである。




















































































































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# by hiabe | 2018-06-30 11:14 | 日本 | Comments(0)

大阪漫遊 その27

各位
このコラム27回の前に、3回ほど、番外編として3回にわたり、私の一過性脳貧血について書いた。これについて、私のダチから、この貧血と飲酒とどのような関係があるのかとの、問い合わせがあった。長い間座っていると、下肢に血液が集まり、頭部は貧血気味になる。血行は自律神経が統制している。年を取るとあらゆる機能が衰退してゆく。若いうちは頭部の貧血気味も、自律神経の作用が十分なため、脳貧血にはならない。しかし、年を取るとこの機能が衰退し、突然立ち上がると、脳貧血を起こすのである。さらに、酒を飲むと、血管が広がり、下部の血流が頻繁になる。血液量の絶対値は一定であるから、頭部の血液も下にひっぱられ、貧血状態になり、神経の機能の衰退のため、一過性の脳貧血になりやすいのである。お分かりかな。
さて、大阪が1000年にわたり、日本の経済、物流の中心地であったとのこと。私は、大阪に5年暮らし、その後も年に数回訪問していたが、そんなことは、まったくわからなかった。東京と同じ大都会とか認識していなかったのである。大体、1000年もの長い間、日本の経済を支配できたのだろうか。その機能をそんなに長い間維持していたら、何らかの、歴史遺産、遺構があるはずだが、残っているのは、碑が立っているだけとのこと。古代、貴族社会から、武士が政権を獲得した時、国民の階級制度は、士、農、工、商、であった。武士は国、藩を作り、農は食料を、工は刀、農機具を作っていた。商人は何も作らず、品物を右から左に移すことで利益を得ていたので、階級制度の下位にランクされていたのである。確かに、戦国時代の混乱期には、商人はそれほど活躍していない。しかし、信長、秀吉、家康の安定期に入ると、がぜんその活躍が、活発になる。人間は、生きるためには、衣、食、住が必要である。衣、住はある程度整えば、あとはそれほど必要でない。しかし、食は毎日必要である。古代、人の集まるところは、奈良、京都のような都である。しかし、彼らは食料品を自分で作ることはできない。当時の日本は、すでに貨幣経済に入っていたので、金さえ出せば、これらの食品は手にすることができたのである。ここに、これらの都の表玄関である大阪商人の出番なのである。
  長くなるので、この後は、来月。
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ここで、画像を作るのに往生している。しかし、周りは山、川、海があり自然は豊富である。私は、花や木にはあまり興味はないが、周りの家がほとんど一軒家、庭も広い。おおくがわたくしのような年寄りなので、皆、庭つくりをしている。被写体としては、これに勝るものはない。画像は、近所の八百屋だが数年前に引退。それでも、軒先に、草花が咲いていたので写してみた。なんの花かって、そんなこと俺が知るか。
阿部弘




























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# by hiabe | 2018-05-30 17:43 | 日本 | Comments(0)

大坂漫遊 番外編 その3

各位
先に、私が酒を飲み、意識不明になったと書いた。早速ダチ達から”ついに、アベも酒に飲まれたか”という返信が舞い込んだ。しかし、私は、スペインに行き、水が飲めないためワイン、ビールを飲み、それ以後毎日アルコールを口にし、1日も欠かしたことがない。これが日本に帰っても続いただけであり、その間、1度も二日酔い、酒に飲まれた経験はない。
この時も前後の意識がなく、朝目が覚めた時も日常と何も変わっていない。ダダ、目をこすったら血がついているので、”あれ”と思っていたら、女房が血相変えて、”あなた、昨日のざまは何よ”と、叫ぶので何のことやらわからなかった。
女房もただトボケているだけかと思ったらしい。そのため、トイレに引っ張ってゆき”これあなたがこわしたのよ”誰が書いたかわからないが、スペインの教会のデッサン絵のガラスが割れている。私が台所とトイレの2度にわたり、倒れて、寝床まで引っ張って行かなければならなかったというのである。証拠を見せられたらしらを切るわけにはゆかない。”そうか、俺もついに酒に飲まれたか”という思いに至った。
しかし、考えて見れば、どうもおかしい。15年以上酒を飲み続け、1回もそんな経験していないのである。このため、スペイン語教室にいる大手ビール会社の偉いさんだった人に話してみた。彼とは10年以上スペイン語を習い、年数回は飲食を共にする人で、もちろん、アルコール、呑み助の酔態の権威者である。
かつて、私が、ガンの検診で医者から”PAS価は0だが、γGTPが120だよ”いわれ、そのことを彼に言ったところ、”心配しなくてもよい、うちの営業の人はほとんど100以上だよ”と言われ、安心したのである。当然、彼とは何回も飲んでいるので、私のことはよく知っているのである。
彼に、その前後のことを話したところ、”それはアルコールのせいでない。一過性の脳貧血。アルコールだったら、翌日、必ず後遺症が出る”とのこと。
これで合点がいった。私は過去4回もこの一過性脳貧血で倒れたのである。すなわち、長く座っていると下半身に血流がたまり、脳は貧血状態になるのである。この時、急に立ち上がると、脳から下半身に血が流れ、脳は完全な貧血状態になり一持的な意識不明になるのである。エコノミー症候群がこれに当たる。これは座っている時ではなく、ふろに入っているとき、寝床にいるときも同じである。首から下が温まり、脳は一時的な貧血状態なのである。この時、急に立ち上がると、同じことが起きるのである。血流は自立神経で支配されるが、年を取るとあらゆる機能が衰退してゆく。
ちょっと前までは起きなかったことが起きるので、皆様、十分気を付けてください。と、言うことで、私は相変わらず、毎日酒お飲んでおります。
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画像はゆづの木である。この木は実を付けるときと、付けない時がはっきりしている。我が家のゆづの実がそれを示していた。
     次回からはなぜ大阪が1000年もの長い間日本の経済、物流を支配していたかの続きを書いてみよう。









































































































































































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# by hiabe | 2018-04-28 11:26 | 日本 | Comments(0)

大坂漫遊 番外編 その2

各位
今年の花粉の散布は例年の倍以上らしく、いつもは2月終わりに薬を飲むと、それでOKだったのだが、今年は効果なく、今でも飲んでいる状態である。
朝起きて、目やにを取るために、目をこすったら、手に血液がついてきた。
なんだろうと鏡を見たら、左目の上の眉毛が3か所切れていた。
女房は、私が目を覚ましたと思い、烈火のごとく怒り”昨日のあのざまは何よ”というではないか。
私は何のことかわからず、”なにが”といったところ、とぼけたと思ったらしく、怒りに火をつけた。
それにしても何にも覚えてないのだから答えようがない。
どうやら、記憶にないということが分かったらしい。
”それでは、トイレにいらっしゃい”とのこと。
なんと、トイレに飾られていた、スペインの教会の絵の額縁が壊れているではないか。
”これ、あなたが壊したのよ”  
私は何も覚えていない。
昨日、根室で歯医者している甥と飲んで、台所で1回、次いでトイレでも倒れたというのである。
私の阿部一族は大酒飲みで、身を滅ぼしているのである。
子供のころからそれを見ている私は”ああはなりたくない”と思い続けてきた。
そのため、製薬会社の営業をやっていた私は、酒を飲んでも、ある程度のところでセイブし、そのため、二日酔いも、酔いつぶれたこともなかったのである。
その私が、このタブーを破り、昼から酒を飲むようになったのは、ひとえに、スペインに行ってからである。
水がのめないのである、北海道から沖縄まで日本は水はただである、しかし、ここでは金を払わないと購入できない。
それも、ワイン、ビールと同じ値段である。
しかも20K先はアフリカ、サハラ砂漠のあるところである。
地中海があるのでそのままの状態で風が来るわけではないが、日本の冬の湿度と同じくらいである。
年がら年中のどが渇き、その都度、ビールかワインを飲んでいたのである。
このため、私の心の中で眠っていた酒飲みのDNAが覚醒してしまったのである。
今回も長くなるので次回に。
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画像はアカモクの木である。我が家の周りの垣根に沢山使われている。残念ながら、我が家には一本もないのである。赤い芽が、次いで黄色になり、その後、緑になる珍しいである。逗子市が配布したので、多くの家でこの木が植わっている。








































































































































































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# by hiabe | 2018-03-30 16:26 | Comments(0)

大坂漫遊 番外編

各位
本来なら、今回は大坂漫遊その27を書くはずであったが、私に、ちょっとした出来事があったので、漫遊は一休みして、その出来事を書くとしよう。現在、私は昼から、酒を飲んでいる。焼酎、ビール、日本酒、ワインのちゃんぽんである。主として、焼酎であるが、常に烏龍茶を6対4で割っている。日本酒は紙箱パック、ビールは6個入りの小瓶、要は、毎日飲んでいるので安いものだけである。しかし、ワインは1000円以上のスペインワインである。今は、日本でもかなりワインを製造し、安いものは500円前後のものもある。しかし、よく見ると、原酒を外国から購入、それを日本で瓶詰にしているだけである。本来ならそれでも良いのだが、私はワインは薬として飲んでいるのでそんなものは飲めない。さて、私がなぜ毎日このように酒を飲んでいるかというと、スペインに行ったからである。それまでもそこそこ飲んでいたが、単身赴任で、福岡にいるときも昼酒はやらなかった。それではなぜか。実は、スペインでは、水が飲めないところが多く、買わなければならないのである。日本では、北海道から沖縄まで、水はすべてただなのである。しかも、その水が高く、ビール、ワインと変わらないのである。こうなると、飲み水代わりに、これらのものを飲んだほうが良いのである。そして今一つ、スペイン人が朝からワインやビールを飲んでいる理由はわかった。だが、のんきな彼らが、実は、その寿命が、世界の10位内に入るくらいなのである。これにイタリアも加わる。日本はズート1位であったが、最近は香港に抜かれているが、香港なんて、人口500万前後、しかも1次、2次産業のないところ、即ち、横浜と比べているようなものである。しかし、スペイン、イタリアは4000万以上である。なぜ、彼らはあんなにのんきなのに、寿命が長いか、不思議に思いません。原因は赤ワインを毎日飲んでいるからなのだ。赤ワインに含まれているポリフェノオールが、血管のつまりを招くオリを掃除してくれるのである。もちろんそれだけではない、ニンニク、オリーブオイルも、大いに貢献しているのである。ということで、私は毎日にんにく、赤ワインを飲んでいるのである。そのため、毎日酒を飲んでいても、あまり酔わないし、倒れたり、寝込むこともなかったのである。と書いたところで、今回も長くなるので、続きは来月。漫遊の続きはそのあとということである。
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先月添付した画像に関係のない夏ミカンのを送ってしまった。今回は、我が家の10メートル先にある、横浜、鎌倉まで続く、や、いやこれは丘だろう。しかし、横浜、鎌倉まで続いているのは事実である。


































































































































ほっとフォトコンテスト





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# by hiabe | 2018-02-25 14:55 | 日本 | Comments(0)

大坂漫遊 その26

各位
先に、明治に入り、天皇は奠都を宣言、江戸城に入府したと書いたが、京都大学を出たジム友からクレーム、天皇は東京に行幸しただけとのこと。そうか、だから京都人はいまだに天皇の席は京都にあるので返せと言っているのか。上等ではないか、熨斗を付けてお返ししよう。しかし、天皇家が江戸城に入り、すでに150年過ぎている。それに、戦後は象徴元首として、世界中の偉いさんを接待するという公務も働いているので、さらに、天皇家は葉山に御用邸という別荘を持ち、このため、交通の便のあまりよくないのに、今や、高級住宅地になっているので、マア、当分はこのままが良いのではないかい。
   話は移り、明治の代は長く続いた鎖国が解かれ、外国との交易が始まった。藩、武士に対して金融機関として働いていた、大阪商人たちは商売ができず、現地に帰り半分寝た状態となった。しかし、外国との交易が始まると、この交易の輪は彼ら中心となりまわり始めた。財を成すものも多くで、これがのちの財閥につながるのである。それでは、又、大阪が日本経済の中心になったのか?答えはNOである。これを考察すれば、逆になぜ1000年の間大坂が日本の物流、経済の中心になぜなったかの答えが出るのである。答えは簡単、外国製品は高く、一般の人たちには手が出せなく、中流以上の人たちだけであったのだ。それでも、一般の人たちの生活が悪くなったわけではない。江戸時代もそうして暮らしていたのだから。これでも、なぜかわからないって。答えは来月出しましょう。
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画像は我が家から10メートルほどしか離れていない山並みである。しかしこの山並みは、葉山、逗子、横浜、鎌倉と続き、鎌倉時代では天然の要害であったのだ。外から入るために、7か所の切通を作って守った。前は海、これは三浦一族のような水軍が控えており、鉄壁の守りであったのだ。






































































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# by hiabe | 2018-01-28 09:36 | 日本 | Comments(0)

大坂漫遊 その25

各位
ついに、明治政府は樹立した。幕藩体制160年間鎖国が実施されていたが、この、鎖国が解け、海外との交易も可能になった。しかし、政府も、末端行政府である県も金をあまり持てなかった。多くの金銀は一般庶民、特に大阪商人たちがたくさん握っていた。交易の輪は彼らを中心に広がっていった。それでは、マタマタ、経済、物流の中心は大坂になったのか、答えは”否”である。海外からの交易品は、日本人にとっては、初めて見、手にするものであった。使い方を誤れば、、危険のものも、さらに、武器に使用されるかもしれないのである。そのため、交易品はすべて、新しく開港した横浜に荷揚げされ、厳重な検査、検疫が行われた。そして、交易相手の、外国人居留地もここに置かれたのである。その後、荷揚げされた交易品の多くは東京に送られたのである。なぜか?幕藩体制時、幕府は藩主の妻子を人質として、強制的に江戸に住ませたのである。そして、藩主は1年ごとに江戸に来させ、妻子に会せたのである。言う所の、参勤交代である。これは、蓄財させない意味もあったのである。このため、北海道を除き、江戸から日本各地に道路が開かれていたからである。これにより、東京、横浜間の往来が活発になり、さらに、日本で初めての鉄道が開通し、激しさが増したのである。この時すでに、天皇は東京に奠都、江戸城に仮住まいしていた。要するに、政治、経済、物流、人、物、金のすべてが集中、東京の一極集中がなされ、それが今でも続いているのである。
  さて、私が、この表題でコラムを書いて25回になり、切りが良いので、今回最後と思ったが、終わりそうもないので、来年も、お付き合いください。


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画像はわたくしが、今使用している書斎、きっちり整頓して写せばよいのだが、私らしく、現在そのままを、画像にした。なんとでも言ってくれ。
  今年も終わりになりそうだが、女房が入院したりで、ここにきて、大変である。皆から、今親切にしておかないと、逆の立場に立つと、コッテンのパンとやられるから、気をつけろとのこと。ご親切なお言葉、ありがとうございます、この野郎。
  では、皆様、よいお年を。

























































































































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# by hiabe | 2017-12-28 14:35 | Comments(0)

大坂漫遊 その25

各位
ついに、明治政府は樹立した。幕藩体制160年間鎖国が実施されていたが、この、鎖国が解け、海外との交易も可能になった。しかし、政府も、末端行政府である県も金をあまり持てなかった。多くの金銀は一般庶民、特に大阪商人たちがたくさん握っていた。交易の輪は彼らを中心に広がっていった。それでは、マタマタ、経済、物流の中心は大坂になったのか、答えは”否”である。海外からの交易品は、日本人にとっては、初めて見、手にするものであった。使い方を誤れば、、危険のものも、さらに、武器に使用されるかもしれないのである。そのため、交易品はすべて、新しく開港した横浜に荷揚げされ、厳重な検査、検疫が行われた。そして、交易相手の、外国人居留地もここに置かれたのである。その後、荷揚げされた交易品の多くは東京に送られたのである。なぜか?幕藩体制時、幕府は藩主の妻子を人質として、強制的に江戸に住ませたのである。そして、藩主は1年ごとに江戸に来させ、妻子に会せたのである。言う所の、参勤交代である。これは、蓄財させない意味もあったのである。このため、北海道を除き、江戸から日本各地に道路が開かれていたからである。これにより、東京、横浜間の往来が活発になり、さらに、日本で初めての鉄道が開通し、激しさが増したのである。この時すでに、天皇は東京に奠都、江戸城に仮住まいしていた。要するに、政治、経済、物流、人、物、金のすべてが集中、東京の一極集中がなされ、それが今でも続いているのである。
  さて、私が、この表題でコラムを書いて25回になり、切りが良いので、今回最後と思ったが、終わりそうもないので、来年も、お付き合いください。
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画像はわたくしが、今使用している書斎、きっちり整頓して写せばよいのだが、私らしく、現在そのままを、画像にした。なんとでも言ってくれ。
  今年も終わりになりそうだが、女房が入院したりで、ここにきて、大変である。皆から、今親切にしておかないと、逆の立場に立つと、コッテンのパンとやられるから、気をつけろとのこと。ご親切なお言葉、ありがとうございます、この野郎。
  では、皆様、よいお年を。

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# by hiabe | 2017-12-28 14:35 | Comments(0)

大坂漫遊その24

各位
明治政府が樹立した。今までの、日本の政治は、古代は王朝政治、中世は武家政治、明治は一応近代政治としておこう。武士政治は800年続き、武家の棟梁が日本政治を担ってきた。棟梁は時代の流れとともに変わったが、徳川幕藩政治は260年も続いた。しかし、地方行政はあまりかわらず、藩がそのまま引き継ぐところが多かった。そのため徳川政権は、政策の大筋を決め、あとは、藩に任せたのである。しかし、明治になり、藩も武士もいなくなったため、末端行政の構築には、困難した。これにより、政府は、強烈な、中央政権政策を取り、あらゆるものが、政府の認、許可が必要になったのである。 そして、260年間鎖国政策を続けたが、これも解除され、海外との交易が可能になった。この交易には、当然お金が必要であったが、世界共通の通貨は、金、銀貨である。日本は火山国であり、これらの貨幣を作る技術も優れていたため、多くの貨幣が、鋳造された。しかし、明治政府も、地方行政もほとんど、お金はなかっのため、政府は紙のお金(兌換紙幣)お作ったが、民衆は、政府も、紙のお金も信用しなかった。しかし、海外との、交易が増加すると、その都度、重たい通貨を持つのが不便で、順次、紙のお金が通用するようになり、日本銀行には、どっさり通貨がたまるようになり、このお金で、新式武器、汽船、汽車などを購入できたのである。江戸時代は 、鎖国していたので、日本の通貨は、外に出ることはなかったのである。それでは、誰が日本の通貨を持っていたかというと、一般市民、特に、大阪商人たちである。海外との、交易は、彼らを中心に進められた。しかし、外国の便利なもの、珍しいものは、当然、高価で一般市民には、わからないし、理解できず、一部の、金持ちだけのものになったしまったのではないか。しかし、答えは”NO”。日本は高い、文化、文明国だったのである。当時の江戸市民の識字率は70%、全国でも50%だったのである。こんな識字率の高い国は、どこにもなかったのである。そのため。見慣れない、外国製品でも、簡単な説明文を付けるだけで、一般庶民でも、金があれば、購入できたのである。そのため、大阪商人を 中心に、この交易の輪は、どんどん広がっていったのである。それでは、また、日本の経済、物流の中心は、大阪になったか。    答えは、次回にいたしましょう。


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画像は、逗子を流れる川である。ここには、沢山の、緋鯉、真鯉が住んでいる。この写真あたりが海との汽水の境界線で、これから、下流は、彼らは住めないのである。逗子市は餌をやることを禁じているが、年寄が、いつもパンなどをやっている。鯉は、ますます増える一方である。困ったもんだ。
    阿部 弘












































































































































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# by hiabe | 2017-11-29 14:44 | 日本 | Comments(0)